The Cambridge Grammar of the English Language について
樋口 久
初掲:2003年 8月
追記:2004年 6月
追記:2004年11月
追加:2019年3月
追加情報はこの文書の最後につけてあります。
極上の一冊を紹介
2002年に発行された Cambridge Grammar of the English Language は、水準も完成度も高い力作である。英文法書は数々あるが、本書はそれらの中でも間違いなく最重要の位置を占めることになろう。
全体は20章からなっている。第1章は序説、第2章は全体の概観(3から17までのセクションがそれぞれ第3章から第17章までの概説となっている)、第 3章以降が各論である。1764ページにわたる本文の後には分野別の 'Further Reading' があり、参照文献表が続き、最後に語彙別・概念別二種類の索引が付く。判型・ページ数共にQuirk et al. (1985)と同規模の文法書である。
編著者の Huddleston と Pullum の他に11人の書き手がいるが、内容・文体・論旨の運び等々から見て、主要な部分における実質的な著者が Huddleston であることに間違いはない。Huddleston は、60年代には Halliday の体系文法の枠組みで仕事をしていたが、後に変形生成文法の方法論に傾き、さらにその後、主として80年代以降からは、より幅広い視野から言語理論を整 理・統合し、英文法を厳密かつ正確に記述する仕事に取り組んでいる。この文法書は、その集大成と言えよう。
一方、Pullum は、厳密な言語理論を追求する立場を貫きながらも、英米いずれにも偏らぬ視点から、柔軟な思考と発想で言語学に幅広く貢献している。英語関係者であれば、 彼が GPSG の創始・発展に重要な役割を果たしたこと、近年の英語学文献について優れた書誌的な知識を持っていること、その一方で Natural Language and Linguistic Theory に 'TOPIC ... COMMENT' なる絶品の風刺文を連載していたことなど、ご案内の向きも多かろう。
(なお、この傑作風刺文の数々を読み逃した人も、心配するには及ばない。これらはちゃんと一冊にまとめられ、Pullum (1991) として出版されている。遊び心満開の序文は J.D. McCawley が書いている。)
近年の英語学・言語学の世界で英文法書と言えば、Quirk et al. (1985) が定番であった。本書は、規模といい、その目指す方向といい、実質上これに対抗する形で出版された文法書である。(なお、どちらも頭文字語にすると CGELとなるが、これは偶然半分、意図半分というところだろう。)
Quirk et al. (1985)は優れた文法書であり、影響力も大きい。英語学関係の論文においては当然のごとく日常的に引用され、その記述枠組みは、例えば Biber et al. (1999) においても、大筋において踏襲されている。いわば英語学の世界における一種の業界標準であり、真剣に吟味することなく、とりあえず無批判に引用する人が多 いという点では、一般日本人の世界における『広辞苑』のような位置づけだとも言えよう。
しかし、もちろん欠点がないわけではない。それどころか、記述の枠組みとその方法論に深刻な問題があることは、早くも Huddleston (1988) が指摘している。すなわち、データに基づいた良質の記述である一方、その記述の枠組みに厳密な検討を欠いており、その結果、第一に不統一が見られ、第二に 枠組み先行で後から事象を当てはめる部分が多い、という弱点を指摘したのである。
このような批判の背景には、本書に至る何らかの計画があったのだろう。Collins & Lee (1999:xi)によれば、本書の構想は1989年である。また、Huddleston 本人は、「Cambridge University Press に対して Quirk et al. 1985 は英文法書の決定版ではないと説き伏せ、結果として6年計画で大型文法書の作成に取りかかることになった」(1990年5月1日付私信)と言っていた。し かし、著書や論文などに見られる仕事の方向性から見て、それ以前から大型文法書を計画・準備していたのはほぼ間違いないと思われる。いずれにせよ、かなり 長期間温めた計画であること、そして当初の6年計画が結果としてはその倍の12年を要していることを考えれば、これはよほど周到に計画を練り、書き直し、 やり直しの連続の末にできた労作であろうことが十分に伺える。洋の東西を問わず、拙速的な書き物がわんさと出回っている現状を考えると、このように念入り に仕上げられた文法書ができあがったことは、それだけでも喜ぶべきことだと言っても良いかもしれない。
本書の最大の特徴は、近年の英語学の進歩によって得られた見方・考え方を反映させ、それを記述に生かしている点である。英語学の成果をそのまま取り入れる 姿勢ではない。その考え方を示すことによって「なぜこういう記述になるのか」を明記するのである。我々は、ともすれば「理論に偏りすぎて言語事実の記述が おろそかだ」とか、「記述があるばかりで理論がない」とかいった言い方に違和感を覚えないほど、理論と記述は相対する概念であるかのように思いがちであ る。しかし、本来、記述対象を持たない理論はあり得ず、またいかなる記述も何らかの理論的枠組みがなくては不可能なのである。本書は、理論面を徹底的に考 え抜いた記述であろうとする試みだという意味で、まさにこの点を我々に納得させる。読者は、納得しつつ読むにせよ、批判的に読むにせよ、それなりの明快な 理解を持って接することができる。
したがって、英語学において意見の一致を見ていない側面については、ある程度バランスをとろうとした記述となる。これを典型的に示すのが、いわゆる助動詞 (auxiliary verb)の扱いである。
1 助動詞
よく知られている通り、助動詞は、主動詞(main verb)と同様に扱うべきか、あるいは主動詞とは別物として扱うべきか、という論点から、一種の論争の的となっていた。これが発展して動詞句、あるいは AUX の構造についての議論も盛んとなった。英語の動詞周辺については、様々な理論的立場から議論が行われるが、残念ながらそれぞれの理論的立場を正当化するた めのネタとして利用されることが圧倒的に多く、英文法の問題としては、いまだ本質的な決着を見ていない。
Huddleston は、基本的に、主動詞として扱うという立場をとり続けている。特に Huddleston (1988:63-64) では(学部生向けの教科書であるにも関わらず!)、自説を押し進めた形でいわゆる助動詞を 'catenative' の一種としている。これは、(本人も認めていた通り)いささか強すぎたかも知れないが、要するにこれが彼の立場である。
助動詞は主動詞同様の時制を持ち、通時的に見ても主動詞から発達してきたものなのだから、その動詞性は疑えない。一方、大多数の典型的な動詞とは違った特 性を持つのも事実である。この特殊な特性を Huddleston は 'NICE' 特性と呼び、したがって、ご本人としては、これらを NICE verbs とでも呼べば良いと考えているのだが、これもまた一般に受け入れられた名称とは言い難い。(日本語では「助動詞」という便利な呼称が広く使われているの で、このあたりの経緯がぼやけるが、それはまた別問題である。)
そこで、本書では、あくまでも動詞であることを強調すべく verb をつけて auxiliary verb と落ち着いたわけである。本文中では単に auxiliary としている箇所もあるが、索引ではauxiliary verbとなっている。要するに、いわゆる主動詞として分析しながらも、広く使われている auxiliary という呼称を使うにやぶさかではない、という態度である。
この結果だけを見ると、単に伝統的な呼称をそのまま使っているようでもあるが、これに至るまでにはそれなりの考えと、様々な考え方を統合する努力があった わけである。なお、「助動詞か本動詞か」の議論において Huddleston の長年の宿敵だった F. Palmer がこの文法書の一部を担当しているのは、この経緯を象徴しているようでもあり、興味深い。
2 規範主義の扱い
さて、近年の流行とも言えるのが、伝統的な規範を否定する姿勢である。例えば1998年に出版された The New Oxford Dictionary of English は、分離不定詞や who/whom の使い方について、伝統的な規範を否定する記述が目立った。そのため、出版された際には、英国の新聞や雑誌が「もう分離不定詞(split infinitive)は許されるのだ」などと書き立てたものである。この背景には、一般読者向けの言語学書で規範主義の弊害を強調し、「言語学はありの ままの言語使用を反映するのであり、あるべき言語使用を規定するのではない」という主張が繰り返され、広く行き渡っている状況がある。
したがって、この文法書も、ご多分に漏れず、大いに規範主義を否定する。典型的に見られるのはやはり分離不定詞(581ページ)であるが、他にも定番の who/whom(464ページ)や、A man with a large waxed moustache and a mop of curly damp hair, whom Hal thought might be his uncle Fred, ... における whom の使用(466ページ)や、an historical novel といった表記(発音)の位置づけ(1619ページ)など、微妙な点についてもバランスのとれた記述がある。
しかし、その一方、規範性がないわけではない。そのことが明らかになった好例は、最近の『英語教育』誌のクエスチョン・ボックス欄で何回かにわたって話題 になった、The question is if ... 構文である。本書では、この構文が不可とされている(974ページ)。ちなみに Quirk et al. (1985:1054)でも同様である。しかし、実際にコーパスなどで調べると、無視できない数の用例が見つかるため、Huddleston 並びに Quirk に問い合わせた、というものである(詳しくは『英語教育』3月号参照)。
この手の話題は、いわゆる教養ある英語話者にとって一種の誤用である構文を、どの程度まで認めて記述すべきなのかという問題に帰結する。コーパスなどの データでは、例えば she don't のように崩れた言い方や、accommodation を accomodation と綴ったり、its と it's を混用したりという「誤り」もかなりの頻度で出現する。いかに客観的な記述を目指すといっても、これらをそのまま記述するわけにはいかないであろう。加え て、英語圏には、一般的に言って、現在の我が国以上に「正しい言葉の使い方」に対する評価が高く、したがって一般の需要もあるという事情もある。それなり の規範を求める空気があるわけである。文法書たるもの、これに応えないわけにはいかないのであって、客観的な記述と規範の問題は、そう簡単に片づくもので はない。
3 独創的な観点
膨大な理論的・記述的視野を統合した作品ではあるが、もちろん、独自の観点を打ち出した部分もある。目立つのは、例えば 'Clause type and illocutionary force' に一章を割いている点である。「平叙文」「疑問文」などの用語は気軽に使われることが多いが、これを厳密に考えていく姿勢は大いに評価できる。特に疑問文 の検討は絶品である。この章(第10章)は、あらゆる英語研究者にぜひ一読をお勧めしたい。
その他、It is I who am at fault と It is me who is at fault の比較(507ページ)、such difficult problems/*so difficult problems の対比(923ページ)等々、細かな点において興味をそそる箇所を挙げればキリがない。通常、こういった事象は、読書を通じて用例を得たり、あるいは研究 書や論文の類によって我々の注意を引くことが多いのだが、本書は、まさにそのように興味を引く事象を数多く提示している。英文法の諸側面を単に記すのでは なく、興味深い側面を察知し、その面白さがくっきりと浮かび上がる記述のできる言語学的知性があってこそと言えるだろう。
結語
この調子で書いていくとキリがないのでここらで止めるが、以上である程度の紹介になったかと思う。少々突き放して客観的に考えると、本書は、「ややクセのある文法書」という位置づけになるだろうと思われる。特にこれくらいの規模の文法書になると、多くの読者は、「○○ページに書いてあることと△△ページの 脚 注とが食い違うではないか」といった目で読むことは少ないので、少々不正確でも穏健な記述に見える Quirk et al. (1985) はもう少し生き残るであろう。
それにしても、この文法書の持つ価値は決定的に大きい。任意の一章を丁寧に読むことが、曖昧な概念にごまかされず緻密に文法を考える訓練になるという意味 では、極めて教育的だとも言える。英語教師をはじめとする英語研究者にとって、極上の英語コースといえるだろう。
これほど良質の文法書であるから、心ある研究者、特に大学で英語学関係の講座を担当しているような人々には、当然ながら、それなりの高い評価を受けるだろ うと思われる。しかし、そういった人たちが、大学院生や学部生を相手に、これを参考書として使うことができるかどうか。ある程度英語学の知識と基本的論点を知っておればこそ「面白い!」と実感できる文法書であるだけに、面白さを伝えきれずにもどかしい思いをすることにもなろう。見た目の大きさと、約2万円 という価格も手伝って、「なんだか難しい大きな本」という印象が広がってはもったいない、そんな気がする。
高校や中学校の英語教師はどうであろうか。これを面白く読むことのできる人も、参考書にしたくなる人も、いろいろだろう。しかし、日本には日本の英語教育 の伝統があるので、直接本書の内容を学生に伝えるわけにはいかない部分もあるだろう。早い話、「あのねぇ、教科書にはこれが疑問文って書いてあるけど、厳密に言うとね…」などという話は、百害あって一利ないことが多いのである(学力低下の著しい昨今の大学の教室にあっても、事情は同じかも知れない)。
したがって、英語関係者にとって「この本がどれほど直接役立つか」というと、「さあねぇ」ということになる。しかし、考えてみれば、学問とは本質的にそう いうものである。追求そのものに、最高の価値と、無上の面白さがある。味わうほどに、一種の知的倫理観が養われる。その道は、大学関係者だけでなく、あらゆる人々に開かれている。本書は、そんな味わいのある一冊である。それを味わった上で、褒めたり、批判したり、考える糧としたり、いろいろしたくなる。要するに腹の底からの嬉しいやる気をかき立てるのである。まことに、質の高いものは、作る人にも、受け取る人にも、紹介する人にも、心からの喜びを与える。
参照文献
Biber, D. et al., 1999. Longman grammar of spoken and written English. London: Longman.
Collins, P. & D. Lee (eds), 1999. The clause in English. Amsterdam: John Benjamins.
Huddleston, R.D., 1988. Review article on Quirk et al. 1985. Lg 64: 345-54.
Huddleston, R.D., 1998. English grammar: an outline. Cambridge: UP.
Huddleston, R.D. & G.K. Pullum, 2002. The Cambridge Grammar of the English Language. Cambridge: UP.
Pearsall, J. (ed), 1998. The new Oxford dictionary of English. Oxford: UP.
Pullum, G.K. 1991. The great Eskimo vocabulary hoax. Chicago: UP.
Quirk, R., S. Greenbaum, G. Leech and J. Svartvik 1985. A comprehensive grammar of the English language. London: Longman.
『英語教育』(大修館)2003年3月号
追記:そろそろ書評も出てきました
このCGEL、やはり人の心をそそらずにはおかないようで、その後、いくつか書評も出てきた。何と言っても面白いのは、
Leech, G., 2004. A new Gray's Anatomy of English grammar. English Language and Linguistics 8.1: 121-47. Cambridge: UP.
である。この人は、Quirk et al. (1985) の共著者であり、しかも文法・理論面では主たる著者の一人であるから、それはもう、どうしても2つの文法書を比較して何か言いたくなるのであろう。まず両 文法書の頭文字がどちらもCGELになってしまうことに文句を付けることから始まり、やれ文法的かどうかの判断が気に入らない、やれ用語が気に入らない等 々、なかなか粘着気質的な批判を展開している。版形もページ数も似ているし、そもそもQuirk et al. (1985) の批判の上に作られた文法書なのだから、そりゃ言い返したい気分にもなるのだろう。真っ向から勝負しているというよりは、どこか口をとがらせて悪口を言いたい気持ちが底を流れつつも、英国の一流学者としての風格がそれを覆っている文体、一読の価値ありなので、関係者にはお勧め。
早い話、Leechさんが言いたいのは、「文法記述を首尾一貫したものにしても、結局のところややこしくなる部分ができるじゃないの」ということである。 例えば、sinceを一貫して「前置詞」と呼ぶのが新CGELの立場であるが、用法によって意味も変わるんだから、それに応じて「前置詞」「副詞」「接続 詞」と呼び分けて何が悪い、というわけである。この手の話は言語記述において永遠のテーマである。どんな記述をしても言い出せばキリがないのだ。この場合、sinceという言葉は厳として存在しており、また用法によっていろいろな意味もある。これがいわゆる言語事実である。これを記述・解説するのにどう いう道具を使うかで「文法」記述が決まる。新CGELは、とにかく品詞名としては前置詞の一言で片付けたのである。異なる意味用法は、どっちみちどこかで 記述しないといけない。
とはいえ、Leechの言い分には確かに一理あると思えるところもある。新CGELは、いわば、言語学的知性の要求する倫理を押し進めたようなところがあ る。例えば、本当にinを前置詞と呼び、forを前置詞と呼ぶのなら、consideringも前置詞だしhomeも前置詞だしthenもwestも nowもhereも前置詞と呼ばざるを得ないではないか、だからこれらは全部前置詞だ、というわけである。これが「正しい」のかどうかはさておき、やはり 多くの人はまずはううむと考え込むであろう。まさにこの、ううむと考え込ませるのが新CGELの教育効果なのであるが、一方、「それはちょっと、どうです かな」というLeechの言いたいこともわかる。繰り返すが、この手の話は、どんな記述をしても言い出せばキリがない。言語記述は、静的なものではない。 事実をふまえ、バランスを取りつつ考え、という知的営為の動きそのものにある。
さて、まとまった書評としては、もう一つ、
Culicover, P.W., 2004. Review on The Cambridge grammar of the English language. Language 80.1: 127-41.
がある。この人は、70年代変形文法の頃に統語論の教科書など書いていたぐらい「英語による(変形)統語論大好き」という人である。したがって、書評の内 容もLeechとは対照的である。もう手放しで喜んでいる。文法的かどうかの判断もほぼ100%賛成、記述内容の細かさも「扱われている内容について、こ れ以上知ることがあり得るだろうかという気分になるぐらい」しっかりしている(127-28ページ)、という具合である。やはり新CGELはこういう人に うけるようだ。
ただし、米国言語理論系の学者のご多分にもれず、この人の主張したいのは結局のところご自分の言語理論であって、後半は言語の知識とその記述についての、 深みも意味もない話に流れていく。関係者の皆さんは、よほど興味がおありでなければ、わざわざ読む値打ちはないと思われる。もっとも、どのみち数ページの 短いものではあるけれど。
さらに追記:また書評を見かけたので(2004年11月18日)
また書評を見かけたので、とりあえずここに記す次第。
Aarts, B. 2004. Grammatici certant (Review on The Cambridge Grammar of the English Language). Journal of Linguistics 40.2: 365-82.
いささか気取ったラテン語の表題が気になるけれど、これにはいきなりご本人の脚注があって、これがホラチウスの引用であり、'Grammatici certant et adhuc sub iujice lis est.' (Grammarians dispute, and the case is still before the courts.) という一節なのだと説明がある。そもそもこれをこのように引用するというセンスについて、ここでは云々しないことにする。
英語学関係・業界の皆さんにはご案内の通り、Aarts はいささか偏った系統の理論にどっぷり浸かった人である。この系統の理論を一言で「チョムスキー理論」などと呼んでしまうことも多いようだが、それはチョ ムスキーご本人にとってご迷惑な話であろう。チョムスキーの著作を一冊でもマジメに読んだ方にはご案内の通り、チョムスキー自身の言語学における射程は随 分と広い。彼は、その広い射程を突き詰めていって、英語という言語内部で生じる狭い事象についていろいろな説明を試みる。それは真剣な知的遊戯である。あ れを試し、これを試し、次には出発点を変えて考え直し、組み直し、という具合である。
その一方、残念ながら、その広い射程を見失い、あるいははじめから理解することなく、ただ英語という言語内部で生じる狭い事象について説明を試みる知的遊 戯だけで商売が成り立つという現実がある。Aartsもその犠牲者の一人といえようか。この手の分野をチョムスキー理論と呼ぶ理由も重々わかるものの、や はりそれはチョムスキー本人にとってはいささか困った話ではないかと思う所以である。
したがって、この手の分野に浸っている人を、ここでは仮に「チョムスキー小僧」と呼ぶことにする。これは決して蔑視の気持ちからの呼称ではなく、どちらか といえばむしろ親しみの気持ちであるとご理解頂きたい。音楽性とは別の次元で、ただギターが大好きな少年を「ギター小僧」と呼ぶ類である。チョムスキー自 身の考えている内容とは別の次元で、その理論の表層的な部分が大好きだという人、すなわち「チョムスキー小僧」がいても良いと思う。
さて、長年のチョムスキー小僧であるAartsさんであるから、実に見事にご自分の狭い視点からこの文法書を眺めておられる。別の視点からの内容が盛り込 まれていることなど、本当に目に入らない御様子である。したがって、「変形文法とPSGの見事な融合だ」(368ページ)とか、「助動詞を主動詞として分 析してくれているのは実に気分がよろしい(gratifying)」(371ページ)とか、ほとんど牧歌的とも言える感想が散見される。いわゆる「繰り上 げ変形」の話題になると(CGELは別段何も言っていないのに)突然がんばって4ページにまたがる行き場のない意見を吐露する(371-374ページ)。
要するに、CGELの記述の背後にご自分の知っておられる世界の文献を読み込み、その世界の話をしておられるのである。CGELの書評なんだから、 CGELという本をしっかり見れば良いのだが、そうはなさらない。「だって、これは、この話のはずだ」と自分の世界に引き寄せ、その話をするのである。そ の調子で補文について、toについて、coordinationについて、と語っていく。
まぁ、こういう偏った人の意見も役に立たないわけではない。その偏った世界について有用な情報があれば、ありがたく頂戴すれば良い(事実、私はそうさせて 頂いた)。
そんな調子だから、「参考文献表がないのはけしからん。あれもない。これもない」と言い始めるのもわかる。CGELの背後にご自分の知っている世界を勝手に想定し、その世界の文献が列挙されていないといって文句をおっしゃっているわけである。
もちろん、「すべてを列挙していくとキリがないので、簡単な文献表だけにしました」というCGELの方針に問題がないとは言えない。しかしまた、「すべて を列挙していくとキリがない」という実状も動かない。言語学の世界だけでも、チョムスキー小僧の他にいろいろな小僧がいる。結構広い世界なのだ。すべての 小僧の皆さんが自分の狭い世界におけるオタク的満足感を得て「ぐふふ、ちゃんとあれも挙げてあるな」という自己満足の笑みを浮かべる文献表を作ろうと思っ たら、それはもう大変なこと になる。CGELを作った人々は、これをよく知っている。その手の作業を結構マジメにやったからである。文献チェック担当の人が雇われていたほどである。 だからCGELの完成には あんなに時間がかかった。特にCGELの肩を持つつもりはない。Aartsさんは無理をおっしゃっている、という当然のことを申し上げているまでである。
この書評に見ることができるのは、大きなものを眺めて、「あ、あの部分は○○だ」「やや、あれは△△に相違ない」と決め込んで喜ぶ姿である。それは、一 種、微笑ましくもある。その思い込みが当たることもあろう。しかし、その根本において、それに触れることでこちらの視野が広がるような精神が燃えているという類のものではないのである。
追加情報(2019年3月10日)
もう良いよと思っていたのだが、便利な情報もあるのでさらに2つほど追加。
(1)まずはつまらない話から。English Studies という雑誌に書評が載った:
Haan, Pieter de. 2005. Review Article: The Cambridge Grammar of the English Language. English Studies 86: 335-41.
あまりにレベルの低い書評だったので(さみしい話ですねぇ)読む必要もないと思われる。CGELの主著者の二人もそう思った…のだが、「English Studies の読者の皆さんに失礼だから」という理由で、このひどい書評に対する返答論文を同じ雑誌に載せた:
Huddleston & Pullum, 2006. Some Remarks About The Cambridge Grammar of the English Language. English Studies 87: 740-51.
はじめから勝負になっていないので、論争にも何にもなっていない。しかし、この雑誌読者に対して「あの書評はひどすぎますね。我々のCGELはこういう文法書なんですよ」という丁寧な説明を含んでいるので、ある意味、著者自身によるCGELのまとめになっている。その点では読む値打ちがある…んだけど、現時点では次でしょう:
(2)著者自身による CGEL の内容まとめ
2019年9月ごろ(?)刊行予定の The Oxford Handbook of English Grammar に次が掲載されるはずである:
Huddleston & Pullum, 2019. Modern and traditional descriptive approaches.
いわゆる伝統文法に対して自分たちの CGEL はどういう位置付けになるか、要領よくまとめてくれている。
・それなりの理由があったとはいえ、伝統文法では形と意味(あるいは「文法範疇と意味機能」;日本語になると難しくなりますねぇ)の混同が目立った。CGEL ではそれを正そうとした。
・「代名詞」「名詞」を別扱いにすることが多かったが、CGEL では代名詞を名詞の一種とした。
・「助動詞」を主動詞にくっつく語として扱うことが多かったが、CGELでは主動詞として扱った。
・その他、「形容詞」「決定詞」等についても見直しをはかり、文法的に筋の通った分析をした。
・「前置詞」「副詞」等々についても…
という具合。また構造分析は「LFGに近いでしょうね」というような言い方もしており、説明のための(独特の)樹形図も示してくれており、英語学関係者なら「へえぇ、なるほど」と納得できる。
なんのかんの言って、CGELは大きい本である。パッと通読してその分析の特徴をつかむのは面倒である。その意味で便利なまとめだと思ったので紹介しました。