劣悪な出版物と我々の責任
1997 年4月
樋口 久
世に英語(学習)関係の本は実に多い。そして当然その質もいろいろである。残念ながら悪いものも沢山ある。
副島隆彦著『英文法の謎を解く』(1995年、ちくま新書)もそのひとつである。内容に嘘や間違いの多いひどいものである。さらにこのたびその続編の 『続・英文法の謎を解く』(1997年、ちくま新書)が出版された。やはり内容は劣悪である。
悪いものにはそれなりの毅然とした対応をしなければならない。断固糾弾し、駆逐すべきである。言うまでもなく、これは言論の自由に矛盾しない。何を言っても自由だからというので差別的発言を続けることは許されないのと同様、嘘に満ちた本は排除されて当然である。
どこがどう劣悪なのか。お話にならぬほどひどい。まず話題の中心である英語が無茶苦茶である。『英文法の謎を解く』では、「a English」(15 ページ)、「変換可能( compartible, コンパーチブル)」(27 ページ)、「リスニング・コンプリヘンジョン listening comprehension」(113 ページ)といった間違いが並ぶ。『続・英文法の謎を解く』でも、「After leaving/departing this station, you will be Nagoya.」(24 ページ)、「a English sentence」(47 ページ)、「freinds of English」(60 ページ)、「explicitely 」(65 ページ)、「radial 」(66 ページ;これは radical のこと)、「good quarity - bad quarity」(105 ページ)、「syntactically, シンタクティスリイ」(126 ページ)、「virsion up (ヴァージョン・アップ)」(136 ページ)、「『猿の惑星』 'The Plannet of the Apes' 」(146 ページ)、「子音(consonent, コンソネント)(178 ページ)(さらに「子音(コンソネント)」(189 ページ))、などが目白押しである。数の多さや間違いの性質などから見て、これは印刷ミスなどというよりは著者の実力によるものであろう。
嘘も多い。目立つものを二つだけ挙げる。まず、『英文法の謎を解く』には「旧約聖書 Bible の冒頭は、『太初にコトバありき。コトバは神と共に在る』という書き出しである」( 80 ページ)とある。もちろんこの書き出しは新約聖書にある「ヨハネによる福音書」の書き出しである。もう一つ、「OALDにも、 walking stick (ステッキ)や Walkman (小型カセットプレイヤー)は載っているが、 walking dictionary は載っていない」(同書 117 ページ)とも言う。しかしOALD第5版(1995年)にはちゃんと載っているのである。LDCE第3版(1995年)にもある。POD第5版(1969 年)にもある。OALDに関して言えば、執筆当時は新しい版を入手しておられなかったのかも知れないから、仮にこの点は措くとしても、『続・英文法の謎を 解く』(59-60 ページ)では、LDCE第3版に walking dictionary が載っていることを認めた上で、これは日本で発生した言い方をこのイギリスの辞書が取り込んだのだと言う。「腹の底では日本人英語学者たちなるものの存在自体をあざ笑いながら編集しているのだ」と言い張る。正気の沙汰ではない。
このような中に著者の説とやらが開陳される。『英文法の謎を解く』では、「『品詞』という見方で考えると、この running は『現在分詞』である」(79 ページ)と言った途端に「品詞名としての現在分詞、過去分詞、動名詞というのもない」(85 ページ)とくる。「これ[「 It's ... that の強調構文」]は、一種の『文の倒置 inversion 』の用法である」(94 ページ)と言う。また、単数形・複数形と可算名詞・不可算名詞のこともわからないらしく、「 -ese や、 -ish で終わるものは、単複同形だが、 -an で終わるものは、可算名詞である」(103 ページ)とも言う。要するに支離滅裂である。例文にも「I have difficulty solving the math question」( 31 ページ)といったおかしなものが多い。『続・英文法の謎を解く』も同様で、「 I told him it. 」(170 ページ)などが出てくる。
『英文法の謎を解く』(61 ページ)及び『続・英文法の謎を解く』(37 ページ)には「『与格』(ダーティヴ)」が登場する。英語流に読めばデイティヴ、ドイツ語流に読めばダーティフであろうが、それは措くとしても、『続・英文法の謎を解く』( 168 ページ)を見ると与格とあるべきところが対格となっており、さらに別の箇所(170 ページ)を見ると、この両概念の混乱が見られ、結局気の毒なことにまるでわかっておられないということが明らかになる。
わかっていなければ精進・努力すべきである。しかるに副島氏は反対の方向に進む。『英文法の謎を解く』では「日本人の学者たちが編んだ言語学辞典の類を調 べてみたが、ピジンとクリオールの違いを明瞭に説明してあるものには、残念ながら出会わなかった」(18 ページ)などと言う。一体何を調べてみたのだろうか。また、『続・英文法の謎を解く』では、leisure という単語はレジャーではなくリージャーと発音すべきだというのだが、その理由は、レジャーという発音を「私は聞いたことがない」(53 ページ)からである。もっとも、「私は知識人層の人々を含めて、この『事実』と『主観』の区別を自覚しながら、ものごとを考えている人間に日本であまり出 会ったことがない」( 155 ページ)ような貧しい精神環境に暮らしておられる点、同情はできる。しかし「このように考える以外は、すべて虚構だ」( 77 ページ)などと言い張る姿勢は汚らわしい。
挙げればまだまだある。また、ひどい本は他にも色々ある。その数は悲しいほど多い。しかしこの場合、筑摩新書という不特定多数の一般読者を対象としたもの であり、内容に嘘や誤りがあまりにも多いことから、たちが悪いのである。害をまき散らす病気のようなものである。
著者の副島氏を個人的に攻撃するつもりはない。色々あって劣等意識の塊になってしまった気の毒な人だと思う。嘘と間違いだらけで、論旨の乱れた、しかも読点のうち方も怪しい稚拙な副島氏の文章を読んだ上での私の素人診断では、これは分裂病に近いと思う。周りに嘘をつき、自分に嘘をつき続けた結果、本当に自分で下す判断、自分の考えというものがわからなくなっている。この人を正気扱いしてきちんとした判断を求めるのは無理だろう。
責任を問われるべきところが二つある。一つは、その戯言に耳を貸し、おまけにそれを出版した筑摩書房に責任がある。もう一つ、このようなものが出版される 状況に甘んじている、英語を専門とし、その教育に携わる我々に責任がある。
筑摩書房に対しては、礼儀を保って申し入れをすべきだと考える。(私は個人名で書面による申し入れを行った。共鳴・協力していただける方がおられれば幸いである。)
我々英語教育関係者としては、今一度自分の立場と責任を自覚せねばならない。我々はこういう劣悪な出版物を見ても「ああ、またか」ですますのが普通である。まともに相手をする方がばかばかしい。自分の研究が大事だ。とは言え、何も知らずにこれを買って読むという時間とお金の無駄をする英語の学習者、あるいは一般読者の皆さんはどうなるのか。こんな劣悪なものが相手にされない市場ができていないのは我々の怠慢ではないのか。例えばきちんとした学習者用の本 を提供し、あるいは出版社の判断材料となるものを提供すべきではないのか。少なくともこれを単に放置するのは英語教育に携わる者のすべきことではない。ここで我々の持つ道徳的責任は、医者が病気の蔓延に対して持つ責任と同様である。
英語講師としては、この2冊に限らず、英語関係で質の悪い出版物については、質の良いものと共に、気のつく限り学生・生徒さんに紹介するべきだろう。良質の辞書がいかなる良心的な努力の結晶であるか、ということもより一層理解してもらえる。また、平和ボケしていることの多い彼らにとって「悪いものが身近に ある」という感覚はちょっとした刺激になってくれるというおまけも付く。
どうか、出版関係の皆さんも、英語を専門とし、またその教育に携わっている皆さんも、「そんなひどい本はまだ沢山あるし」とか「いちいち言ってたらキリが ない、放っておけば」という態度を今一度見直してほしい。我々一人一人の心がけ一つでこのひどい状態は改善できる。
最後に一つ。このように劣悪な本を取り上げることで、かえってその本が売れてしまうのではないかという意見もあるかも知れない。が、売れること自体は構わないではないか。筑摩書房も副島氏も、金銭的には得るところもあろう。副島氏だって発狂の暁には入院費用もいるだろう。この場合金銭利益は本質的なことで はない。要するに読む方がこれは劣悪だとわかるのが重要なのである。そのために我々英語教育関係者のなすべきことがある。これを訴えたいと思ったのであ る。
副島隆彦著『英文法の謎を解く』(1995年、ちくま新書)もそのひとつである。内容に嘘や間違いの多いひどいものである。さらにこのたびその続編の 『続・英文法の謎を解く』(1997年、ちくま新書)が出版された。やはり内容は劣悪である。
悪いものにはそれなりの毅然とした対応をしなければならない。断固糾弾し、駆逐すべきである。言うまでもなく、これは言論の自由に矛盾しない。何を言っても自由だからというので差別的発言を続けることは許されないのと同様、嘘に満ちた本は排除されて当然である。
どこがどう劣悪なのか。お話にならぬほどひどい。まず話題の中心である英語が無茶苦茶である。『英文法の謎を解く』では、「a English」(15 ページ)、「変換可能( compartible, コンパーチブル)」(27 ページ)、「リスニング・コンプリヘンジョン listening comprehension」(113 ページ)といった間違いが並ぶ。『続・英文法の謎を解く』でも、「After leaving/departing this station, you will be Nagoya.」(24 ページ)、「a English sentence」(47 ページ)、「freinds of English」(60 ページ)、「explicitely 」(65 ページ)、「radial 」(66 ページ;これは radical のこと)、「good quarity - bad quarity」(105 ページ)、「syntactically, シンタクティスリイ」(126 ページ)、「virsion up (ヴァージョン・アップ)」(136 ページ)、「『猿の惑星』 'The Plannet of the Apes' 」(146 ページ)、「子音(consonent, コンソネント)(178 ページ)(さらに「子音(コンソネント)」(189 ページ))、などが目白押しである。数の多さや間違いの性質などから見て、これは印刷ミスなどというよりは著者の実力によるものであろう。
嘘も多い。目立つものを二つだけ挙げる。まず、『英文法の謎を解く』には「旧約聖書 Bible の冒頭は、『太初にコトバありき。コトバは神と共に在る』という書き出しである」( 80 ページ)とある。もちろんこの書き出しは新約聖書にある「ヨハネによる福音書」の書き出しである。もう一つ、「OALDにも、 walking stick (ステッキ)や Walkman (小型カセットプレイヤー)は載っているが、 walking dictionary は載っていない」(同書 117 ページ)とも言う。しかしOALD第5版(1995年)にはちゃんと載っているのである。LDCE第3版(1995年)にもある。POD第5版(1969 年)にもある。OALDに関して言えば、執筆当時は新しい版を入手しておられなかったのかも知れないから、仮にこの点は措くとしても、『続・英文法の謎を 解く』(59-60 ページ)では、LDCE第3版に walking dictionary が載っていることを認めた上で、これは日本で発生した言い方をこのイギリスの辞書が取り込んだのだと言う。「腹の底では日本人英語学者たちなるものの存在自体をあざ笑いながら編集しているのだ」と言い張る。正気の沙汰ではない。
このような中に著者の説とやらが開陳される。『英文法の謎を解く』では、「『品詞』という見方で考えると、この running は『現在分詞』である」(79 ページ)と言った途端に「品詞名としての現在分詞、過去分詞、動名詞というのもない」(85 ページ)とくる。「これ[「 It's ... that の強調構文」]は、一種の『文の倒置 inversion 』の用法である」(94 ページ)と言う。また、単数形・複数形と可算名詞・不可算名詞のこともわからないらしく、「 -ese や、 -ish で終わるものは、単複同形だが、 -an で終わるものは、可算名詞である」(103 ページ)とも言う。要するに支離滅裂である。例文にも「I have difficulty solving the math question」( 31 ページ)といったおかしなものが多い。『続・英文法の謎を解く』も同様で、「 I told him it. 」(170 ページ)などが出てくる。
『英文法の謎を解く』(61 ページ)及び『続・英文法の謎を解く』(37 ページ)には「『与格』(ダーティヴ)」が登場する。英語流に読めばデイティヴ、ドイツ語流に読めばダーティフであろうが、それは措くとしても、『続・英文法の謎を解く』( 168 ページ)を見ると与格とあるべきところが対格となっており、さらに別の箇所(170 ページ)を見ると、この両概念の混乱が見られ、結局気の毒なことにまるでわかっておられないということが明らかになる。
わかっていなければ精進・努力すべきである。しかるに副島氏は反対の方向に進む。『英文法の謎を解く』では「日本人の学者たちが編んだ言語学辞典の類を調 べてみたが、ピジンとクリオールの違いを明瞭に説明してあるものには、残念ながら出会わなかった」(18 ページ)などと言う。一体何を調べてみたのだろうか。また、『続・英文法の謎を解く』では、leisure という単語はレジャーではなくリージャーと発音すべきだというのだが、その理由は、レジャーという発音を「私は聞いたことがない」(53 ページ)からである。もっとも、「私は知識人層の人々を含めて、この『事実』と『主観』の区別を自覚しながら、ものごとを考えている人間に日本であまり出 会ったことがない」( 155 ページ)ような貧しい精神環境に暮らしておられる点、同情はできる。しかし「このように考える以外は、すべて虚構だ」( 77 ページ)などと言い張る姿勢は汚らわしい。
挙げればまだまだある。また、ひどい本は他にも色々ある。その数は悲しいほど多い。しかしこの場合、筑摩新書という不特定多数の一般読者を対象としたもの であり、内容に嘘や誤りがあまりにも多いことから、たちが悪いのである。害をまき散らす病気のようなものである。
著者の副島氏を個人的に攻撃するつもりはない。色々あって劣等意識の塊になってしまった気の毒な人だと思う。嘘と間違いだらけで、論旨の乱れた、しかも読点のうち方も怪しい稚拙な副島氏の文章を読んだ上での私の素人診断では、これは分裂病に近いと思う。周りに嘘をつき、自分に嘘をつき続けた結果、本当に自分で下す判断、自分の考えというものがわからなくなっている。この人を正気扱いしてきちんとした判断を求めるのは無理だろう。
責任を問われるべきところが二つある。一つは、その戯言に耳を貸し、おまけにそれを出版した筑摩書房に責任がある。もう一つ、このようなものが出版される 状況に甘んじている、英語を専門とし、その教育に携わる我々に責任がある。
筑摩書房に対しては、礼儀を保って申し入れをすべきだと考える。(私は個人名で書面による申し入れを行った。共鳴・協力していただける方がおられれば幸いである。)
我々英語教育関係者としては、今一度自分の立場と責任を自覚せねばならない。我々はこういう劣悪な出版物を見ても「ああ、またか」ですますのが普通である。まともに相手をする方がばかばかしい。自分の研究が大事だ。とは言え、何も知らずにこれを買って読むという時間とお金の無駄をする英語の学習者、あるいは一般読者の皆さんはどうなるのか。こんな劣悪なものが相手にされない市場ができていないのは我々の怠慢ではないのか。例えばきちんとした学習者用の本 を提供し、あるいは出版社の判断材料となるものを提供すべきではないのか。少なくともこれを単に放置するのは英語教育に携わる者のすべきことではない。ここで我々の持つ道徳的責任は、医者が病気の蔓延に対して持つ責任と同様である。
英語講師としては、この2冊に限らず、英語関係で質の悪い出版物については、質の良いものと共に、気のつく限り学生・生徒さんに紹介するべきだろう。良質の辞書がいかなる良心的な努力の結晶であるか、ということもより一層理解してもらえる。また、平和ボケしていることの多い彼らにとって「悪いものが身近に ある」という感覚はちょっとした刺激になってくれるというおまけも付く。
どうか、出版関係の皆さんも、英語を専門とし、またその教育に携わっている皆さんも、「そんなひどい本はまだ沢山あるし」とか「いちいち言ってたらキリが ない、放っておけば」という態度を今一度見直してほしい。我々一人一人の心がけ一つでこのひどい状態は改善できる。
最後に一つ。このように劣悪な本を取り上げることで、かえってその本が売れてしまうのではないかという意見もあるかも知れない。が、売れること自体は構わないではないか。筑摩書房も副島氏も、金銭的には得るところもあろう。副島氏だって発狂の暁には入院費用もいるだろう。この場合金銭利益は本質的なことで はない。要するに読む方がこれは劣悪だとわかるのが重要なのである。そのために我々英語教育関係者のなすべきことがある。これを訴えたいと思ったのであ る。